世界で一番幸せな  ハル様作品



世界で一番幸せな


  ヴィラの片隅にある、綺麗な家。
 世界で一番幸せな犬が住んでいる、と住人たちは言う。

「ローレン」
 俺は、居間に腰掛けた青年に声をかけた。
「イアン」
 ゆったりと応えた青年の黒い髪は日の光を浴びて輝いていた。
地味な造りだが上品な顔立ちの静かな青年は、シンプルなブルーのシャツにスラックスをまとっている。外へ出たら間違いなく、誰もが飼い主の一人だと考えて会釈するだろう。
 しかし。
「お前の飼い主が、今日、来るそうだ。支度をする」
 彼が優雅な佇まいでいられるのは、この家の中だけだ。一人で庭に出ることすら、彼には許されていない。
とっくに成犬である犬が、靴下や下着だけならともかく飼い主と見まがうような装いで歩かれては、いかに持ち主が承認してもヴィラの風紀の乱れだからだ。
「ああ」
 ローレンは、担当アクトーレスに楽しげな笑みを見せた。
「今日はどんな調教をするのかな?鞭?浣腸?それとも、電気を流すとか」
 俺は、無表情で流した。
「いつもと同じだ、道具の準備はしてあるけどな。身体を綺麗にして服を脱いで犬らしくして待っていろ、と言う命令だ」
 あはは、というローレンの笑い声が部屋に響く。
「飽きないなあ。高い金払って、まあ」
 ぼやきつつ、ローレンはソファから立ち上がった。俺は、彼を風呂場へ連れて行って服を脱げと命じ、従った彼の体内を洗浄した。
「自分でやるのに。その方が楽だろ、アクトーレス?いい加減面倒じゃないのか」
床に膝を着きながら彼が言うのを、俺は無視した。
担当する犬の中でただ一匹の例外、今はもう俺にとって友人に近い存在である男。
ローレンが一匹の犬に戻るこの時、俺もまた、一人のアクトーレスに返って彼に接するように努める。
彼の飼い主であるリックは、出入りするようになって長くはないが、ヴィラのメンバーでも上位に入る大富豪のパトリキだ。加えて、ローレンに関わることなら金は無尽蔵といっていいくらいに景気よく払うヴィラの上客だ。
ローレンが逃げようとすることなど絶対にないと確信はしているが、以前に酷い目にあって以来、俺は自分自身の判断力をも過信しないようにしている。気を緩めて万に一つのトラブルでもあったら、俺の方がとんでもない面倒なことになる。リックは、持ち犬であるローレンの扱いには慎重でも、アクトーレスの首や立場には頓着も慈悲もないだろう。
「……よし」
 すっかり綺麗にしたローレンを、俺は首輪をつけて裸のまま四つん這いで歩かせ、居間へ連れ帰った。
首輪につけた鎖を柱に繋ぎ、床にうずくまったローレンがぼんやりと外を見ているのをよそに、縄や鞭、バイブなどの器具を揃える。
 いつか日が暮れて夕闇が庭を包み始めたころに、待ち人はやってきた。
「いらっしゃいませ、アシュレイ様。お待ちしておりました」
「ああ」
 金髪碧眼の美青年は、そっけなく応えてさっさと居間へ向かった。
 一見すると彼の方を犬で飼いたいと思われそうな容貌のリックは、その実、誰からも、内心でさえもそんなことを考えられてはいないだろう、と俺は思っていた。
顔立ちの美しさに不足はない。なのに、その瞳を見ると、萎えるのだ。
あまりに獰猛過ぎる目は対等の客同士として側に居る気すら削いでしまうのだろう、どこへ行っても彼の周囲には何となく空間ができてしまう。
“……ま、無理もないけどな”
リック・アシュレイ。彼は確かに貴族の出身だが、手にした巨万の富は親譲りの財産ではない。妾の子であった彼が家を飛び出して欧州から単身でアメリカに渡り、大学生の時に己の才覚で事業を起こして築いたものだ。
その上で欧州へ手を伸ばしてさらに成功をおさめ、自分をサンドバッグのように扱っていた実家へ牙を剥いて、父である当主を破産に追い込んだ。そして父が首をくくった後は、先祖代々の家を借金のかたに取り上げ、自分を苛め抜いた正妻やその子である腹違いの弟妹たちを無一文で叩き出したという。
あまつさえ、自分を金と引き換えに父の家へ渡して逃げた実母を連れ戻し、最低クラスのどん底の娼館に売り飛ばしてのけて代金を借金の利子に当てた、と言う話はヴィラの中でも有名だった。
 結局、すっかり落ちぶれた異母弟が町の喧嘩で惨めな死を遂げたため彼は爵位をも継ぎ、自分が昔それこそ犬にも劣る暮らしをしていた大きな家を改築して、今は一人で住んでいる。
 何をも信ぜず何にも依らず、ただ己の力だけを頼みに生きる男の隙も容赦もないまなざしは、調教に慣れた俺の目にも飼いならすには厳しすぎた。
生まれながらに屈服を受け入れない男、犬になろうものなら飼い主の喉ぶえを喰いちぎって死を選ぶ男。リックは、そういう人間だった。
居間で足を止めた彼が飼い犬の裸の背中を見下ろすのを、俺は後ろで眺めていた。
「ローレン」
「……はい。ご主人様」
 床に座り直したローレンが、手をついて行儀よく頭を下げ、主を迎える。
つい、と靴のつま先で顎をつつかれたローレンは、大人しくリックの靴に口づけた。
「……ふん」
 乱暴にローレンの髪を掴んで、リックは犬に後ろを向かせた。なすがままになる犬の肩に後ろから、がり、と噛み付く。
「んっ……」
 ローレンは、低く呻いた。
「大人しくしてたようだな。逃げ場のないこの街で、家にこもって怯えながら俺を待ってたか」
「は、い……ご主人、さま」
 繰り返したローレンの腕をねじ上げ、リックがもう片方の手で自分のズボンの前をくつろげる。
「あ、ああ―――――!!」
 床に押しつけられ犯されて甲高い声を上げるローレンの切なげな表情を、俺は部屋の隅に立って見ていた。
「いいざまだな。死ぬまで出られない檻に閉じ込められた気分はどうだ、ローレン?悔しいか、悔しければ抵抗してみろ。その覚悟があったら、の話だけどな」
 リックが低い声でせせら笑う。突き上げられたローレンは、ただ
「うっ、んっ、くっ……あ、ああっ」
と言葉にならない喘ぎを上げるだけだった。
 痛みと快楽でうっとりと染まったローレンの瞳を、リックは決して見ない。後ろを貫くものが馴染むに連れて啼き声が段々と甘やかにかすれていくのにも、決して耳を傾けようとはしない。
「惨めなものだな。ハーバードのキャンパスをこれみよがしに闊歩していた名家の子息が今は鎖で繋がれて、下品な声できゃんきゃん啼いてる。おいローレン、今の気分はどうだ。感想でも聞かせてみろ」
「んっ……嬉しい、です。ご主人様に、抱いて、もらって……」
ローレンの変化に反比例するように、リックの視線は氷河の破片のような透徹した硬い冷たさをまし、声には残酷な嘲りの色が漲っていく。
「許してくれ、と言ってみろ。俺の哀れみに縋って、優しくして下さい、とねだってみろ。それとも、死んだ方がいい、と思う程度の誇りは残ってるのか、ローレン?」
 言葉と共に前をいじられ握られた犬が、きゃーん、と悲鳴を上げる。
「あァ……ご、主人様……許して……ゆるして、くださ、い……っ」
 うわごとのように、ローレンが命じられた言葉を繰り返す。
「ぼくを……許して、お願いです……可愛がって下さい……リック……ぼくを、哀れんで……捨てないで、側に……お願い……リック……!」
 涙混じりの絶叫が上がるのと共に、リックはローレンを解放し、自らも達した。
「は……あっ、はあっ、ああっ」
 荒い息をついて肩を揺らす犬を、乱暴に主が抱え上げる。
俺の存在などすっかり忘れたように寝室に足を向けるリックを見送り、ドアが閉じるのを待って、俺は使わなかった道具の片付けにかかった。

 重い足取りで部屋へ帰ってくると、能天気そうな朗らかな声が迎えてくれた。
「お帰り、俺のイアン。待ちくたびれたぜ」
 それこそ犬のような人懐っこさでしがみついて来る弛んだ顔のシチリア・マフィアに、帰る道すがらで巡らせていた鬱々とした想いがさらに複雑になる。
「ああもう、鞄も下ろさないうちからしがみついてくるな」
押しのけようとする俺の手を、彼は構わずに掴んでぐいぐい身体を摺り寄せてくる。
アンジェロ・レオーネ。それが俺の相棒の名前だが、俺には今もバカ犬のレオポルドの方がしっくり来る。
今でこそヴィラの客とアクトーレスだが、出会った時の俺たちは二匹の惨めな犬だった。鞭で打たれ客に犯される日々の中で、やっぱりレオポルドはこうして俺に擦り寄って暖めてくれた。
その後、運命の変転のままに俺はアクトーレスの地位に押し戻され、レオポルドは死神とワルツを踊った末にマフィアのボスのアンジェロ・レオーネに生まれ変わって俺のもとへ帰ってきた。
「だから、上着を脱いで一息つくくらいの間をくれ、と言ってるんだ、レオポルド。一日働いてくたくたの恋人に対する同情はないのか」
「ははん、残念だな。俺もくたくたなんだよ。せっかくだから、互いの疲労を労わりあわないか、イアン?」
 全く退く様子のないレオポルドのやる気満々の顔に、俺は諦めて
「勝手にしろよ、もう」
と言った。レオポルドが、さっさと俺を抱え上げる。
玄関でやるのかと思ったが、居間のソファと絨毯の方が都合がよろしい、と考える余裕はあったらしい。
それだけは誉めてやってもいいか、などと考えているうちに、もう俺は居間のソファに押し倒され、服を剥がされ、乗っかられて乳首と股間をいじられていた。
「……ッ」
 気持ちのよさに身をよじる俺をレオポルドが笑いながら押さえつける。
「大人しくしろよ、イアン。なあ、俺の、イアン」
 愛しそうな嬉しそうな弾んだ声に耳元をなめられて、身体を快感が走る。
熱く脈打つたくましいレオポルドの身体を抱き返しながら、理性の飛んでゆく俺の頭の隅に、リックの下で精を吐き出して脱力したローレンの、口元に少しだけ笑みを乗せた顔が浮かんだ。

 ひとしきり汗をかくと、レオポルドは満足したようだった。
床の絨毯の上で俺を抱きすくめながら、彼はのんびりと尋ねた。
「――――そういえば、何だか今日は憂鬱そうな顔をしてたな。死んだ犬でもいたのか?イアン」
「……気がついてたくせに、よくも襲いかかってくれたな。お前は」
 力強い腕に閉じ込められながら、気だるい気分のままで俺は彼を睨みつけた。レオポルドが、
「だから労わってやったんじゃないか。元気が出ただろ」
と言って笑う。
俺は、大きくため息をついた。
「別に大したことじゃないがな。苦手な客に当たった」
「どんな?」
 重ねて訊いてきたレオポルドの声が少し真剣になったことに、俺は苦笑した。
以前に俺が犬に堕とされたのは、俺の調教を見て妙な気を起こした客の企みだったのだ。
しかし今回に限っては、間違いなく違う。
リック・アシュレイが関心をもつ相手は、ヴィラの中にただ一人。
昔はキャンパスで友人と呼び、今は鎖で繋いだ飼い犬であり弄ぶ生きた玩具である男。
黒髪のローレンだけだ。
冷たい凍てついた氷の中に蒼い焔が燃えるリックの瞳を思い出し、俺は呟いた。
「お前に似てる客だよ」
「……あ!?」
 今度はハッキリ穏やかでない声を立てたレオポルドに、俺は小さく吹き出した。レオポルドが、からかわれたと思ってふくれる。
俺は、笑いながらようやく身体を持ち上げて、レオポルドの顔を眺めた。
「まあ、似てるところがあるのは嘘じゃないな。ほんの少しだけ」
 ―――――敗北を受け入れない、強い瞳。どん底でも決して諦めない、揺るぎない意思。
悪意には怒りをもって報い、裏切りには制裁の剣をもって対し、敵には容赦も慈悲もなく、胸に憎悪を抱けば鬼のような残酷さを見せる男。
自らの力で地獄から這い上がった人間に特有のオーラを放って歩く、自信とエネルギーに満ちた男。
「だが、それだけだな。お前と違って、バカじゃないが素直でもない面倒な客だ」
「……俺はバカで素直で面倒のない男だってか?」
「何を図々しい。お前みたいな面倒な男がいるか」
 俺は、手を伸ばして恋人の頬を引っ張ってやった。
「やったな」
 レオポルドが笑いながら俺を抱きしめる。俺は、思い切り息をついた。
胸の奥まで、春の陽だまりのようにぽかぽか暖かい。
満たされ切った幸福感の中で、思考はまた、リックとローレンの二人に飛んでいた。
 ――――――レオポルドにあってリックにないもの。リックが持っていて、レオポルドが持たないもの。
二人の違いは、その瞳の、声の、言葉の温度の差だった。
愛するものに愛している、と叫んで抱く真っ直ぐな暖かさ。リックには、それがない。
完璧に、一欠けらも一粒も残さずに、リックのそれは風化して消えてしまっていた。
「……ローレンって犬が居るんだ。俺が、仔犬の頃から調教してた奴なんだけどな」
「ああ。幸せもののローレンか」
 レオポルドがあっさり頷く。
「知ってるのか」
「俺も一応、ヴィラの客だからな。小綺麗な家で服を着て暮らして可愛がられてる犬がいるって話だろ。鞭で打たれることもなけりゃ、広場で卵を産まされたりもしない。欲しいものを何でも買ってもらって、その上に主人は年中会いに来る。その飼い主は、家具でも宝石でも、愛犬の喜ぶものを手に入れるためなら金を惜しまないとか」
 俺は、黙って笑った。
「飼い主の方は見かけたこともあるぞ。何だ、あんなすまし返った男が俺に似てるってのか」
「あっちの方がずっと男前だけどな」
 またふくれるレオポルドを宥めながら、俺は金髪碧眼の美しい客とその飼い犬の話をしてやった。


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